インタープレイを“き”かせてくれ

ジャズ好きな、そこそこ年のいったライターのブログです。周囲の誰よりも早く、コレステロールの薬飲み始めました。

直木三十五について

直木賞芥川賞の受賞者が公表となった。

 

文学賞の中でもひときわ有名な賞でだ。

 

知らない人は多くないだろう。

 

少し前、といっても体感的なもので、実際には随分前に、金原ひとみ綿矢りさ芥川賞を受賞した際に、受賞作品を読んだ。

 

金原ひとみの、蛇にピアスは、純文学というよりも倒錯した性の羅列のように感じ、綿矢りさのインストールは、ウジウジとしたただ暗い作品のように見えて、それ以降は芥川賞直木賞の受賞作品を読むことはなかった。

 

今回、直木賞受賞作品のタイトル、月の満ち欠け、という、美しい言葉に惹かれて、本屋に向かった。

 

最近は、とかくセンセーショナルなタイトルや、客寄せに近いような装丁が多いが、シンプルかつ聰明な言葉遣い、ふわりとした表紙に惹かれる。

 

住んでいる三鷹駅近くの本屋に行くと、どこにも平積みとなっていない。

 

発表されたばかりだから、派手なポップに大量の平積みにでもなっているかと思ったのに、随分と探し回った。

 

あったのは、レジ横の小棚。

 

3冊ほど置かれ、ハガキほどの紙に直木賞受賞作品と申し訳程度に書かれていた。

 

江戸時代の歌会の多くが名前としてしか残っていないように、賞、というのは栄枯盛衰。

 

いつかは威厳を失い、先細りになっていくのだろう。

 

それにしても、なかなかに小さな扱いに大層驚いた。

 

この本屋だけなのかもしれないが、それにしても小さな扱いだ。

 

そういえば、直木賞の名前になっている、直木三十五の作品を読んだことがない。

 

周囲の人間にも、読んだ者は多くなかった。

 

案外、そんなものなのかも。

 

月の満ち欠けは、美しい日本語を持った、綺麗な作品だ。

 

読み進めていくのが、楽しみだ。

ストローについて

ストローとは、藁という意味だそうだ。

 

見た目が藁に似ているからだろうか。

藁でアイスコーヒーをすすっていると思うと、なんとなく変わった気分になる。

 

見た目が先行する言葉というのは、存外あるもので、刺身などの調理方法、焼きしも造りなどもそうだろう。

 

皮目に焼きを入れると、うっすらと身が白み、皮がちりっとする。

これが、霜がおりたように見えるから焼きしもだそう。

 

国が変わっても、言葉のつけ方は変わらない。

意外と単純なものだ。

 

見た目が先行するという意味では、政治家のポスターにも言えるような気がする。

 

どれも顔を印象づけるために、随分と近くで撮影し、空を見上げていたり、ポスターを見るものに満面の笑みを浮かべたり。

 

印象操作とも言うらしいが、とにかく見た目のイメージを良くしようと工夫が凝らされている。このポスターの影響はなかなかにあるそうだ。

 

先日までは都議選が活況としており、駅前での街頭演説は鬼気迫るものがあった。

 

結局は小池新党の圧勝だった訳だが、僕は、都内に住みながら、住民票を移していたないため投票権を持たない。駅に隣接する喫茶店の二階席から、街頭演説を眺めていた。

 

議席のない議員は、1年間収入がほとんどない。また、発言権のない政治家ほど、所在のない人間も多くないだろう。

 

まさに、藁をも掴む思いで都民にうったえかけていた訳だ。

 

ストローでアイスコーヒーをかきまわして思ったが、こんなものに掴みかかってもしようがないだろう。

 

もう少し、つかみかかる相手を選らんだ方がいいのではないだろうか。

 

藁1本では、いかにも心許ない。

痴漢冤罪についての多大なる恐怖について

電車に乗車するたび、恐怖する毎日だ。

 

よく使う中央線は、万年激混みの通勤車両だし、例え総武線に乗ろうとも、吉祥寺辺りまではなかなかに混んでいる。

 

朝の時間帯は顕著で、もはや混んでいるというよりも、絡まっていると表現したほうが良いほど、多くの人でごった返している。

 

その中で僕は、両手を組んでいるか、西部劇の下っ端よろしく、諸手を上げている。

 

怖いのだ。痴漢冤罪が。

 

いや、痴漢はあるのだろう。決して、痴漢に対する女性の恐怖を揶揄している訳ではない。実際に見たことはないが、卑劣かつ下劣な行為であり、憎むべき卑劣者の手口である。

 

犯人は、逆さ吊りにした上に焼けた石を抱かせ、水車に縛り付けた後、清水寺から転がし落とせばいい。

 

しかし、もしも自分が間違えられたらと思うと、恐怖である。

 

そのため、手の血液がほとんど失せ、冷たくなった上に痺れを感じ、ああ、これはこのまま腐って落ちるのでは、なんて思っても両手をつり革にひっかけている。

 

なにせ、もしも痴漢に間違えられようものなら、いくら無罪を訴えようと、逆さ吊りにされた上に焼けた石を抱かせられ、水車に縛り付けられた後、清水寺から転がし落とされることとなる。

 

なんたる悲劇!

 

鉄道会社には、ご同輩から男性専用車両を作ってくれとの要望もあるそうだ。

 

納得である。

 

さて、そんな得体の知れない恐ろしさを抱え、電車から降りる。

 

気疲れしているのでぐったりだ。階段で上を見ると、夏場の薄手スカートの間からチラリ。

 

ふぅぅぅーーー!!!!!

夏場の薄着最高ーーー!!!!

 

銭湯について【三鷹:三谷湯】

既に引っ越しの手続きを済ませてしまったものの、やはり数年お世話になった街には思い入れがある。

 

太宰治のお墓があるからなどと、安易な理由で決めた割りに、住み心地のいい街だった。

 

三鷹、という場所だ。

 

駅を挟んで南側は三鷹市、北側は武蔵野市と、面白みのある区分けもお気に入り。

 

僕の家は北口から歩いて15分ほどのところで、友人などを招くと、遠い、とよく言われていた。

 

武蔵野市は、すわ、中国に迷い込んだように自転車利用者の多いところで、ご多分にもれず僕も自転車を利用していた。

 

そのため、あまり、徒歩15分は気にならない。

 

現在のNTTの研究開発施設、と、思われるものもあり、NTT通りなんて往来もある。

その通りの近くに、三谷通りが続く。

 

商店街として栄えたのは今は昔。現在は飲み屋と小料理屋、物珍しいところでいくとガチャポンで購入する、無人本屋などがある。字面にすると分かりにくいが、是非一度足を運んで確かめて欲しい。なかなかに趣深い。

 

その通りの一角に、山谷湯(さんやゆ)はある。

 

湯船2つ、腰の部分にあてるジャグジーが2人分。あとは洗い場。以上!

 

シンプルな銭湯だ。水風呂などもなく、休憩所も脱衣所の中に、3人掛けくらいのベンチが1つ。

 

これが、意外にもいい。

 

施設の充実したスーパー銭湯ばかりめぐっていても、ときどきこんな銭湯で汗を流したくなる。男性用の脱衣所にはポカリスエットの売っている自販機があって、風呂上がりの楽しみとしている。

 

シンプル、という以外の特徴としては、清潔で、風呂に浸かっている間も気分がいいこと。

そして、めちゃめちゃ湯船が熱いことが上げられる。

 

熱い! とにかく熱い!

しかし、それがまたいい。ヒートショックプロテインがガンガンに生成されているのを感じることができる。

 

洗い場には、腹から下を赤くした、2トーンカラーのおじさん達が「ふぅぅぅぅぅ」なんて言いながら涼んでいる。そしてしばらくするとまた入り、テープの逆再生のように洗い場へと戻っていく。

 

ここで、全身くまなく洗い、一気に、そして大量に汗をかいて、ふたたび体を冷やしながら体を洗い、を繰り返し、脱衣所で冷えたポカリスエットの缶を干す。

 

なんだか体の中の悪いものが出ていくような気がして、お気に入りだった。

 

22時くらいまで空いているが、お店の人にうかがったところ、21時くらいまでには入って欲しいとのことだった。

 

それでも、遅い時間に自分の体をゆであげていると、21時半近くになって新しく入って来る人もいる。

 

その辺りは適当なんだろう。

 

シャンプーも、石鹸もない。

 

熱い湯と、清潔さだけを提供してくれる。

 

これだけでも、ほかでは得がたいものがある。

利用客は少なめ。いいのか悪いのか、そこも気に入っている部分だった。

ジョージアオンマイマインドについて

レイ・チャールズが好きだ。

 

全盲のピアニストでシンガー。

晩年に迫るほど活動の幅は広がり、伝記映画まで制作された。

 

意外と知られていないが、50年代はごりごりのモダンジャズスタイルでのピアノ演奏、そして、アルトサックスを売りとしていた。

 

アルトのプレイをしていたときなんかは、ミルト・ジャクソンとの競演が音源としても有名で(ソウルブラザーズ、ソウルミーティングなど)、レイ・チャールズがアルトを吹いている間は、ミルト・ジャクソンがピアノでインタープレイをする。2人のミュージシャンが、交互に同じ楽器を演奏するというのは、型破りな構成が多いジャズでも珍しい。

 

サックスも美しい、ピアノも美しい、そしてボーカルは、ソウルフルな才能の持ち主。

 

歌声としては、1930年代の曲をカバーして、大きくヒットした。ジョージアオンマイマインドという曲は、多くの人が聴いたことがあるだろう。

 

レイ・チャールズは、この曲のタイトルにもあるジョージア州から、追放の憂き目にあったことがあるそうだ。

 

いわゆるアメリカ南部であるジョージアには、当時(今はどうかは僕は知らない)黒人差別が色濃く残っており、それに反発したレイ・チャールズがコンサートを行わなかった。その影響で、同州から追放されたとか。

 

追放が解けたのは、1979年だという。まだ40年も経っていない。

 

たまたま知り合いの音楽ライターから聞いただけで、追放についてのいきさつを詳しくは知らない。それでも、1人の人間をある場所から追放する。そこにどれだけの意味があるのか。

 

今日、独立後に地元に戻ってきた。もしもこの街から追放されたら、そんなことを夢想して思い出した。

 

ジョージア、というのは、州の名前ではなく、女性の名前ではないかという説もあるらしい。歌う人間によって、意味合いが変わる曲も珍しい。

 

ジョージアジョージア、と繰り返す部分を聞くと、いかにも“ブルー”で、なんだか泣けてくる。

余暇について

唐突に見えるが、先日、退職した。

 

行動自体は、読んで字の如くであるものの、一応は独立、というものだ。

 

今後1人でやっていくことに不安も覚えたが、よく考えたら、今までも1人で案件をこなしていたので、大した違いはない。

 

そう思うと、少し気も楽になるというものだ。

 

さて、会社員には有給休暇というものがある。苛烈な制作体制から、ほとんど使用したことがなかったので、7月一杯は有給休暇消化ということになった。

 

といっても、独立後も今の会社から仕事を受けるので、あまり悠々自適ともいかない。

 

昨日などは電話とメールがひっきりなしだった。

 

それでも、在職中に比べ格段に手が空く。

 

部屋に1人ボケっとしているのも飽きたので、外に出る。昼日中から目的もなくぶらぶらとするのは、なかなかに楽しい。

 

季節も季節なので、歩けば自然汗ばむ。

また、生来のワーカホリックなのか、どうも原稿の1つでも書きたくなる。

 

自室のイスは、安でだったせいか、はたまた僕の体重のせいか、土台が壊れてしまったし、涼みたい、そして、原稿を書きたいという欲求は、喫茶店という空間に帰結した。

 

日中の喫茶店といえば、新聞記者時代には休憩所、編集者時代には打ち合わせの場所であった。

 

今はといえば、右を向くのも左を向くのも休憩みたいなものなので、例え原稿を書こうが、コーヒーをすすりながらボケっとしようが、いわゆる休みというやつだ。

 

なんとなく、所在ない。

 

心持ちが違うからか、店内の人へよく目がいく。

 

打ち合わせに勤しむ人々、友人との会話に興じるご老人など、種々さまざまな過ごし方がある。

 

隣に座ったご年配の方は、なにやら新聞の切り抜きのコピーの束に、美術品目録のようなものを熱心に読んでいる。

 

もしや、この方、ルパンのような怪盗で、これから盗みに入る美術館の下調べでもしているのではないだろうか。

 

後から入ってきた、孫自慢のご老人は、次元大介かもしれない。

 

なるほど、そうすると、あの杖は仕込み杖ということになる。

 

そんな妄想も楽しめる。

 

休み、というのはいい。明日をどのように過ごすか、アイスミルクをかき回しながら考えるのも、また良い休みの過ごし方だ。

 

事ここに至って、人間には休みが必要なのだと、初めて感じ入る。

夏の滋養について

暑い、蒸すのか暑いのか、どちらかにしてくれなくては困る。

 

洗濯物は異臭がするし、自慢のぬか床からは発酵臭が漏れ出している。

 

一人暮らしの1Kでは、どちらも、いかんせんきつい。

 

はてさて、夏といえば滋養のあるものを食べたい。スッポンや夏野菜を使った涼味を楽しむことで、ビタミンなどの栄養をとるのもいいだろう。

 

はたまた、冷たい蕎麦をズズリとすすれば、失った塩分だけでなく、蕎麦屋に多い、古い日本建築の涼しさも思い出せる。

 

それらを押しのけても楽しみなのは、天ぷらだ。

 

180度からなる熱々の、インドやらベトナムやらの気温も吹っ飛ばすほどの劇熱で揚げた、エビや野菜、季節の魚。

 

まさか冷やし天ぷらで食べることはないので、揚げたてがおいしい。それなのに、どうも夏を感じる。

 

天ぷら屋で聞いたら、やっぱり夏は車海老の天ぷらをよく出すそうだ。

 

それこそ熱々の天ぷらなんて、冬に食べたくなるような気がするのに、夏に冷酒と天ぷらなんて、定番のお品書きに見える。

 

汗と共に失った油分が腹に入るからなのか、とにもかくにも天ぷらの旬は夏と言えるのではないだろうか。

 

かといって、まさか昼から冷酒を干して、天ぷらをたしなめるほどの身分でもない。

 

そこで楽しみにできるのが、天ざるだ。

 

揚げたてのエビ天に、冷えたざる蕎麦。どちらから食べるか、いや、交互に口を冷ましながら食べるのか、考えるだけでも生唾を飲み込んでしまう。

 

物の本で読んだが、この天ざる、実は近代料理に入るらしい。

 

詳しくは天せいろ、ざる蕎麦は海苔がかかっているが、せいろには海苔がない。

 

直木賞作家でもあられる、戸板康二大先生の寄稿文にある。

 

先生いわく、銀座のよし田、が、天せいろを始めたのでは、とのことで。

 

先生のお生まれは1915年というから、意外にも歴史は浅い。

 

文の中で、蕎麦と天ぷら、どちらをどの順で食べるか迷う、とおっしゃっているから、やはり正解はないのだろう。

 

先生ほどのお人でも、分からないのであれば、どちらから食べても、問題はない。

 

これで、身体の滋養については、問題ない。

天ぷらが先か、蕎麦が先か、そんなことを楽しみに考えるのは、心の滋養になるだろう。

 

職場の効きすぎたクーラーには、辟易とさせられる。明日も、天ぷらの持つ、滋養を楽しみに、暑さを忘れて仕事をしたい。