インタープレイを“き”かせてくれ

ジャズ好きな、そこそこ年のいったライターのブログです。周囲の誰よりも早く、コレステロールの薬飲み始めました。

“○○離れ”について

過日、知り合いのライターA氏と食事をしているときのこと。

 

となりの席で「また若者の“○○離れ”だよ。なんでも離れさせられるな」「人口少ないからじゃないの?」

なんて会話が聞こえてきた。

 

A氏は「そういえば“離れ”ってよく目にするよね」

なんて独りごちていた。

 

そういえば、よくインターネットの配信ニュースで、目にする気がする。

A氏「トレンドが違うから、だんだんと趣味嗜好が違う風になるんだろうね」

僕「そうですね、まあ、江戸時代の食事と、今の食事の内容が違うように、どんなものでも変化していきますからね。栄枯盛衰ですね」

 

と、話していた。

 

A氏は、あんまりweb媒体では仕事をしていない。

そういえば、紙や新聞では、書いたことも、あまり目にしたこともない。

 

A氏「しかし“離れ”ってなかなか悪意あるよね。それを消費しないことが悪いみたいなさ」

 

なるほど、そんな考えもあるのか。僕は単純に

 

「いや、タイトルの文字数、スマホ表示に合わせるのに短くしたいから“○○離れ”にまとめてんじゃないすか」

 

なんて話した。

 

現状、多くのweb記事の対象は、スマホ表示を指標にしている。

SEO対策なども含めて○○文字以内、と各サイトで概ねを提示している。

 

そうすると「消費が落ち込み」とか「消費量の落ち込みで」という文字数よりも、

「離れ」と2言で表記した方が、ほかのワードを折り込みやすいんだろう。

 

使い勝手がいい短めのワードは、確かに重宝する。

それに“離れ”という言葉に、(いろいろな意味で)反応した人間がクリックしてくれるのを待っているんではないかと思う。

 

誰が最初に考えたか知らないが、非常に便利だ。一石二鳥というやつである。

今度使ってみようかな。

 

とにもかくにも、

江戸時代の人から見たら、こう言われるんではないだろうか。

「未来人の心離れ」

書いた人も、読んだ人も、誰も得はしないような気がする。

寄り添おうという気持ちではなく、一概にカテゴリー分けされた怒りと、PV数を上げようという気持ちが、益々、両者の距離を離してしまう。

 

それよりも、生産者の人と一緒に、その“離れ”てしまったものへの魅力でも取材した方がいい気がする。

 

そんな、無用なことを考えてしまった。

骨付きソーセージでダシをとることについて

この世で一番好きなソーセージがある。

北海道はトンデンファームの“骨付きソーセージ”である。

 

こいつがめちゃくちゃうまい!

 

和食が一番好きだが、この骨付きソーセージが国内で食べられなくなるなら、

食べられる国に移住してもいい。

 

魚焼きグリルなどで3分ほど強火で焼いて、パリパリになったソーセージの表面に、しゃぶりつくように噛みつく。

肉を引きはがすように噛みとり、咀嚼。

 

うまい!

 

肉の部分を食べ終わった後、骨にしゃぶりついても酒が飲める。

胡椒の香りとわずかな塩味、そして骨をガジガジかじると少し剥がれる柔らかい骨片。

 

これがなかなか良い味わいを持つ。

美味しい骨をかじりながら酒を飲める店がないかと思うくらいいける。

 

さて、2カ月に1回ほどのペースで北海道に赴く用があるため、

空港で必ず購入する。

 

週末に1本ずつ、ちびちび食べていたところ、ついに冷凍含めてストック無しとなった。

 

最後は盛大に4本同時焼きという1人パーティーを開催。

食べ終わった後に残る4本の雄々しい骨。

 

いつも通りしゃぶりつこうとしたところ、ケンタッキーフライドチキンの骨からダシをとったという話を思い出した。

 

もしかして、この骨、いいダシが出るんではないだろうか。

すぐに昆布を水につける。昆布はダシの基本だ。コンソメスープとる時だって、昆布を入れると楽に旨味がだせる。

 

さて、そのまま水につけても、この固い骨から効率的にダシがとれるとも思えない。

そこで、ハンマーでたたき割ることにした。

 

これが、

 

固い!

 

たたいてもたたいても割れない。3~4分格闘し、左手には名誉の負傷。

何とか2つに割れた。

 

こいつをニンニク・玉ねぎと水を張った雪平鍋に入れ、強火で炊く。

 

昆布は、強火にさらすとうまくダシがでないので、別鍋で中火。

 

1番ダシも何もないので、じっくりと煮こむ。

そうして、最後に強火で沸かせて昆布臭さをとる。

 

2つの鍋のダシを合わせ、一煮立ちさせ、塩・醤油・酒を加えた。

味つけが済んだら下ゆでした豚肉を入れ、完成。

 

これが結構うまい。

なんかどっかで食べたことあるような気がしていたら、

沖縄で食べた豚の骨を使った汁物に似ていた。

 

ご飯と汁、そして、ここ2年育てたぬか床で漬けたぬか漬け。

 

骨付きソーセージは1パック5本入り。

豚1頭だろうか、何頭もの素材が混じっているのだろうか。

 

どちらにしても、せっかく食べるなら、余すところなく使ってやりたい。

桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿ついて

一昨日、下町で食事をした後、隅田公園を散策した。

 

時刻は22時ごろだったろうか。

 

ランニングをする人々とすれ違いながら、目的もなくぶらぶらとする時間は、なかなかに得がたいものだ。

 

スカイツリーは橘色に色づき、なんだか手塚治虫の世界に迷い込んだ気がする。

 

少し湿った空気はもやのように空にかかり、上野や東京の方角の街の灯を、僕のいるところに垂直に映し出していた。

 

遊具やベンチ、座ることができるようにスペースの空いた植え込みの影には、年頃の恋人達が人目をはばかるようにして点在し、くすぐったいような声でささやきあっている。

 

それらを横目で見ながら、少し海の匂いのするしめった空気を吸いこむと、なんだか人が大勢いる、いかにも東京というような気がして楽しかった。

 

しばらく歩くと、もっと川沿いに降りられることが分かった。

そちらの方に歩いていくと、より水っぽい空気が肺に取り込まれて、気持ちがよかった。

慈雨の際に傘をさして散歩しているようだ。

 

しばらく呆けて歩いていると、同行者から、隅田川の話を聞いた。

 

この広い、大きな川には、その昔多くの人々が飛び込んだとのことだった。

東京大空襲による出来事だ。

 

隅田川沿いには慰霊碑も建立されている。

 

こんなことを調べたり、人づてに聞かなければ気づかなかった自分に吐き気がしたし、

恥ずかしい思いがした。

 

僕のような業界の末席にいるような人間に、まして昨日今日気がついたようなうわべの人間に、このことについては触れられる訳もない。

 

それでも、当時の姿がまったく想像できないほど整備された隅田川は、筆舌に尽くしがたいほど美しく、この気持ちは表現できるものの域を超えている。

 

この辺りは、春になれば桜の花でいっぱいになるそうだ。

花見客も大勢いて、それはそれは壮観だとか。

 

僕はしばらくすれば、東京から神奈川に引っ越すことになる。

それでも、次の桜が咲くころには、ここに酒でも持ってこようかと思っている。

 

当時の人々が、どんな気持ちで、夜半に歩く僕を見ていたのか。

恥ずかしい姿を見せることはできない。

梅ジャムについて

梅ジャムを買った。

 

そう、今頭に浮かんだものそのものだ。

駄菓子屋で数十円で売っている梅を使用したジャム。

 

先だって「梅ジャムは、工場生産ではないんだ。高林博文さんという人が、1人で作っている」と聞いた。

 

マジかよ。マジと書いて真剣の意だが、あえて、真剣にマジかよと思った。

 

子供のときから慣れ親しんだ駄菓子である。

これを1人の人間が作っていたとは。

 

この状況はまさに〝地球防衛症候群〟だ。

 

〝地球防衛症候群〟とは、僕の作った心理用語。

仲のいい友達2人と遊びほうける。いつの間にか居なくなっていることの多い2人。そして打ち明けられる。「実は俺たち、地球の平和を守るヒーローなんだ」そこで、なるほど、2人がスッといなくなっていたとき、そのとき2人は命がけで迫り来る宇宙人と闘い、まるで何事もなかったかのようにもどってきていたのだ。

 

そして、2人の心の中では、私に対する無知をあざけるような、こんな気持ちが去来するのだ。

 

これが〝地球防衛症候群〟である。

 

男2人、女1人の友達グループでも、シチュエーション違いでまま起きる状況だ。

その際は是非〝地球防衛症候群〟を思い出して欲しい。

 

さて、ともかく梅ジャム製造について驚きを隠せなかった僕は、駄菓子屋に行くことにした。

と、思ったら意外とないのね駄菓子屋。

 

よく考えたら、駄菓子屋をやるようなおばあさんが、HPを運営しているとは考えにくい。

しょうがないので、足で探そうと思ったが、別件で訪れたドンキホーテで駄菓子コーナーを見つけた。

 

まさか、と思ったらあった。

この不自然に蛍光っぽい色味。記憶に違わぬ梅ジャムだ。

 

駄菓子屋という文化の枯渇に関してもいろいろ考えていたのに、あまりに童心に返り過ぎて一端忘れてしまった。

 

梅ジャムは、確かかなりの酸味を誇っており、薄焼きのせんべいに塗って食べていたと思う。探すとすぐ近くにあったので、一緒に購入。

 

食べるとまた酸っぱい。ここがおいしいところだけど。

 

駄菓子屋もほとんどないし、これから生まれてくる子供達は、こんな郷愁を味わうことはないのか。ま、江戸時代にあった「ももんじや」を今見かけなくなったように、文化は巡っていくということなのかな、なんて思っていた。

そう考えると、商売というのはなかなかむなしいものだ。

 

それにしても、もう満足。

調子にのって10袋も買ってしまった。

 

こんなに食えない。

濡れ衣について

この時期、女性用水着についてよく調べる。

 

いや、勘違いをしないで欲しい。

 

仕事で、である。

 

普段は紙モノの編集者をしているが、webの仕事も継続して行っている。

収益的にはwebのが高くなっているような気もする。

 

さて、このweb案件というのはおもしろいもので、

さまざまなものを取り扱うことができる。

 

アルバイト情報誌の文言書きから、よくあるインタビュー、なかにはアダルティーなサイトについてなど、枚挙にいとまがなく、今回は毎週掲載されるEC、つまりインターネット通販の仕事のこと。

 

女性用水着について、まさか30がらみの独身男性、女日照りが続きすぎてアラブの石油王も真っ青の私が書く訳もなく、女性ライターを手配してその編集のみする。

 

もちろん、ECサイトであれば商品の情報は大切。公式サイトやメーカーの情報を確認して、記事との正誤がないようにするのだが、この作業中、自然女性用水着を取り扱うサイトへ、多くの訪問をする。

 

サイトを回遊している内に、ちょっと珍しい水着なんかをクリックしたりもする。

いや、決して見たいからではない。

 

トレンド水着との正確な対比が必要なのだ。そういうことなのだ。

 

とにもかくにも、多くのクリックをGoogleのかしこいアルゴリズムはこう判断する。

こいつは、水着が欲しいのだ。

 

そうなってからは恐ろしい。webサイトを巡る際、急に右側のバナー広告に女性用水着が写ったり、記事をスクロールする途中に水着モデルのポーズ画像が写ったりする。

 

さて、何度も表示されるとクリックしてみたくなるもので、先日1つの広告をクリックした。

運の悪いことに、海外のコスプレグッズのサイトだったようで、現在、広告表示される箇所には、扇情的な女戦士の格好をした外国人女性が、今にもはちきれそうなぴちぴちの服でこちらを見ている。

 

明日の午後にはプレゼンがあるので、朝から東洋経済新報と日経のサイトを何度もクリックしている。今だ改善は見られない。

 

これ、このままだったらどうしよう。

夏の鮎の相棒について

江戸時代の俳句に

 

「目に青葉 山ほとどぎす 初鰹」

 

なんてあるが、気づけば初鰹なんてとっくに終わって鮎の季節になっている。

 

鮎というと塩焼きがいい。腹身を箸の先でつまみ、独特の香りの身を口に運ぶ。

脂のほどよく落ちた、淡泊な白身の舌触りと、肝の苦み、食べていた藻などのかぐわしい香りがして実においしい。

 

途中でヒレの部分に濃いめについた化粧塩も味わう。

しょっぱさと相まって、ヒレのカリカリとした食感が、

実に素晴らしい。

 

蓼酢と一緒に食べることが多いが、僕はあまり酢が好きではないのでつけずに食べる。

 

ちょっと寄り道する。

 

一緒に鮎を食べに行くと蓼を知らない人が多く、毎回蓼とは、を説明する。

蓼とは、スーパーなどにはほとんど並ばない食材だ。

しかしながら、その存在は多くの人が知っているはず。

 

そう「蓼食う虫も好き好き」の蓼のことだ。

 

川原などに自生していて、食べると辛い。

 

一説によれば、

その昔、鮎を釣った釣り人が、たまたま鮎を持ち帰るための方法がなく、

近くに生えていた蓼に包んで持ち帰った。

それを焼いて食べたところ、蓼の香りが鮎に移り大変美味だったとか。

 

行きつけの割烹屋のマスター曰く、自分で畑で作った蓼の方が

香りが強く、より一層風味が良いらしい。

 

是非一度自家製蓼を供するお店で食べてみて欲しい。

 

さて、本題。

この鮎、ご相伴する酒がなかなか決まらない。

 

夏の夕方に食べるからか、よく冷えた瓶ビールで食すこともある。

しかしながら、強い発泡と苦みが邪魔になってしまう気がする。

 

それでは日本酒かというと、辛口でも口中の肝の苦みをぬぐい去るのに

もったりとしすぎてしまう。

 

焼酎と割りモノはもってのほかだし。

ああ、今年は何を相棒に食べようか。

 

ビールか日本酒か、はたまた飲んだことのない銘柄の焼酎のロックか。

 

こんなことを考えながら、夏の到来を待つのがたまらなく楽しい。

 

ああ、夏がくる。

喫茶店とカフェについて

先日、知り合いと喫茶店にて打ち合わせの機会を持った。

 

日取りを調整する電話にて、先方から「じゃあ、中野北口の〝カフェ〟で打ち合わせということで」と、提案があった。そこで思わず「はい、中野北口の〝喫茶店〟で」と返してしまった。

 

「え?」「いや、はい」などと、なんとなく、

互いに喉にひっかかったような感覚を覚えて会話を終える。

 

そうこうする内に当日。

平素ならば店内で待ち合わせるものの、高円寺あたりでSNSにてメッセージを送ると、ちょうど東中野とのことだった。

 

両方の駅とも、中野のお隣である。それでは、ということで駅で待ち合わせることにした。

 

改札を出る辺りで後ろから声をかけられる。通り一遍の挨拶をしてから、二人して歩き出すと、

「じゃあ、例の〝カフェ〟へ行きましょう」と語りかけられる。

 

すかさず「ええ、今日の〝喫茶店〟いいお店らしいですね」

 

などと返事をする。

 

したらば、返す刀で「そうなんですよ。〝カフェ〟なんですがご飯もおいしくて」

 

負けじと「へー、普段〝喫茶店〟ではほとんどご飯たべないんですが、今日は食べちゃおうかな」

 

するとまた「えー私は〝カフェ〟に行ったらいつもなんか食べちゃうんです」

 

まだまだ「〝喫茶店〟では書類を広げることもあるので、テーブルのスペースが・・・・・・」

 

などと、苛烈な争いを繰り広げた。

 

特に気にすることではないと言われればそれまでだが、とにかくカフェという言い方になぜかあらがいたくなった。

 

カフェとは、確か岩波の国語辞典には、洋酒などを供する女給のいる店、と記されており、コーヒーを提供するスタイルは以前となっていた。

 

だからなんだと言われればそれまでだが、同じ色の服でもメーカーの好みがあるように、言葉の選び方にも好みがある。

 

僕は特に偏向的かもしれない。

とにもかくにも、正しくはないが通俗的に同じものを示す言葉を巡る闘いは、互いに駅でお別れを交わすまで続き、どちらに軍配が上がるでもなく今日に至る。

 

さて、ついさきほど、スマホがペンぽーんと小気味よく鳴った。

 

画面を見ると、件の知り合いから。

 

「この前お聞きした〝カフェ〟、行ってみたらイタリアのバール式で、おいしい〝カッフェ〟をいただいてきました! とっても香りがよくって! 今度は〝カッフェ〟を飲みに行きましょう!」

 

〝カッフェ〟とは、イタリア語でエスプレッソのことだとか。

 

どうよ、これ。